人気ブログランキング | 話題のタグを見る

歌いはじめる

突如として自室(ウサギ部屋)のB&W804d4が歌い始めた。理由をあれこれ考え続けたが分からない。


スピーカーのエージング(劣化)だろうか、

アンプ類のさらなるエージング(劣化)だろうか、

ケーブル、特に電源ケーブルのエージング(劣化)だろうか、


それとも

他の階、他の部屋で使っている家電をいろいろ買い替えたことによるノイズの変化だろうか、


あるいは

体調が良いから良い音に聴こえるのだろうか、


いやいや結局は

耳のエージング(劣化)だろうか


兎にも角にも、804d4がのびのびと歌っている。

歌うといっても相変わらずジャズは真面目すぎてMinima+Mcintoshセットに勝てないが、クラシック、とくにオーケストラ再生は超高域から低域までよどみなく再生され至福である。ピアノ音楽もアップライトピアノがグランドピアノになったがごとく大きく大きく鳴り響く。


去年はRoonを始めたことに併せてTidalとQobuzでストリーミングにのぼせ上げ、年間でたった1枚のCDしか買わなかった(笑)。だいたいEsotericの限定版SACD以外はここ数年来買っていなかったから、手持ちのわずか3000枚弱のCDライブラリーで余生をこじんまり過ごそうと、ただ衰退の路を歩きはじめていた。そこにきてRoon+Tidal+Qobuzで止めどもなく新譜や全ジャンルの音楽を聴きながしは、音質的犠牲があるにせよ、「我がオーディオ趣味の再起」に大いに役立った。


Tidalに600円、Qobuzに1800円、Roonに2000円毎月支払うことで、ディスクという物理的メディアへの投資額を吸い取られている。毎月2~3枚のCDを買った「つもり」でストリーミングを楽しもう、そう決めていたわけだ。


そこに、この事態である。

とにかく音質差がすさまじい。

これほどまでディスク再生が心地よく、静かで、エネルギッシュで、しなやかで、リアリティーあふれる音で愉しめるようになるとは全く想像していなかった。嬉しい誤算である。この状況下でディスクを買うしかないとのぼせるのは「オーディオ趣味人の性格」だから仕方がない。


先月末から突如として歌いはじめた804d4、それが明確に判ったキッカケは、Roonからのデータ再生音とDP750のディスク再生音、その圧倒的差を804d4が克明に表現しはじめたからだ。


同じ曲を再生して比べる。


大抵はRoon上のQobuz音源の方がビットレートが高い。DP750のディスク再生は通常のCDである場合でも、その差が決定的なのである。言うまでもないが、Roonの音の方が情報量が多い。より緻密でより繊細である場合も多い。その中で静かでしなやかな音はディスク再生しか得られない。その有機的なサウンドにすっかり魅了されたのだ。


Amazon、楽天、ブックオフでSACDを探し続けていたが、ふと以前よくタワーレコードの限定SACDを買っていた事を思い出した。早速20枚ほど買い漁り、聴き貪った。


これは良い。とにかく良い。

ノイズレスのアナログレコードを聴いているような滑らかで心地よいだけでなく、大音量のオーケストラの凄まじいサウンドエネルギーが一切の破綻なく部屋全体にきれいに広がる。


飽和しない。

飽和しないのだ。

C3850のボリューム値から「ー(マイナス)」がとれた状態で全く飽和せずウサギ部屋で静かにきれいに音が広がり続ける。連続15W入れても音の往復ビンタ状態にならず。全く信じられない。どこか壊れてるんじゃないかと不安になるほどである。


これほどの音、もう二度と聴けないだろうと寝る間を惜しんで聴き続けた。

そうなのだ。一度寝て次の日に聴くとあまりの音の悪さにガッカリしたこと数えきれず。良い音が出ている最中、一度寝て翌日になるのが怖い。


いかにその恐怖があるとはいえ、一睡もせず聴き続けることは無謀だから、寝る。

そうして、翌日。

おそるおそる、聴いてみた。

そして驚いた。「同じバランス」なのだ。あり得ない。良い音、それが次の日でも味わえるのだ。こんな体験は今まで一度もなかった。


一度良い音を聴くと、次の日は「もっと良くなっているにちがいないという期待」ゆえに、音が悪く聴こえるのが普通である。良い音を体験し終わるとその体験が足枷となって、より以上の経験を求めてしまうのだ。


# by bachcantata | 2024-03-08 16:28 | オーディオ

気分の問題

思い込みとオーディオについて常日頃感じていることをつづる。


音が良い

音が変わった

云々。。


数値データで変化がないことは「思い込み」と一蹴する。オーディオの世界に限らず、数値化できない、イコール、まやかしに過剰反応する人たちは古今東西存在する。その全面的な拒絶はまるで何かにひどく怯えているようでもある。


私のようなウサギ部屋でオーディオ音楽を聴く凡夫はもとより、50畳をはるかに越す広大な専用部屋(ホール)でひとりオーディオを嗜む分限者たち、表面的な大きさ、形はちがえど「思い込み」を大切にする趣味人と話せばとても愉快である。


年の瀬、年明け、あるいは、なにかをきっかけにオーディオ部屋を掃除する。ある程度、お気に入りのオーディオ装置が決まってしまうと、頻繁に移動させたり、買い替えたりしなくなるので、いつのまにか接続がゆるんだり、装置やラックの下にホコリがたまっている。それをやり変えたりしてきれいに気持ちよくするのである。


風呂好きな祖父に似ているかはともかく、私は日に何度も風呂に入って家族が呆れるほどだが、掃除もいざやるとなると徹底的に行う。


気持ちが良い


そのスッキリした感覚が実に好ましい。とくに風呂上がりのオーディオは最高である。湯冷めさえ気をつければこれほどの幸福感はめったにない。下着のままでついつい装置や接続の状態に気を取られるとカゼをひくので要注意だが。


部屋の掃除をする。

ホコリを払って拭き掃除。

そうして、ひと段落、音楽を聴く。


すると、いつもの曲が「心なしか良い音」で再生される。掃除した後の再生音はいつも「心なしか良い音」である。数値では測れない「気分の問題」がしっかりと反映されている。いや測れるわけない。それだからこそ「心なしか良い音」を楽しめる。


「気分の問題」をひたすら否定することは自由である。

数万円と数千万円のオーディオセットを比較して「ほとんど違いがないばかりか数万円の方が好ましいと答えた人の方が多い」というデータはあふれるほどあるし、別にそれはそれで「そうだろうな」と否定しない。


承認欲求が満たされないゆえ、ちがいが分からないことを表現しづらい。あの人よりも鈍感と思われたくない、ただそれだけである。逆を言うと、高額品を使うことはあの人よりも敏感でちがいがわかっていると主張できるからこそ、ちがいが分からなくとも自己重要感のために高額品を所有するわけである。非常にわかりやすい。


聴き方人それぞれで構わないのだが、どうしても情感が介入することに抵抗がある。再生する音楽はすべて情感そのものであるのに、再生される音に対しては情感の排除を絶対条件とする。指揮者の数だけ、ベートーヴェンの「運命」が存在していることを知っていても、ボッタクリなどといって高額品をいっさい拒絶する。それも高額品の否定によって自己重要感が満たされているから、結局のところ、ボッタクリ論は高額品の存在で成立しているのが皮肉だが。


学生時代にBPOとカラヤンが来日するといってみな騒いでいた。そのために私の諸先生方も休講だらけ。そんななか、友人はひたすら「行かない」と突っぱねる。五味康祐みたく「カラヤン!気取るな!」なんて格好つけるのかと思いきや「彼女がいないから行かない」と言う。どうして彼女とカラヤンが関係するのか、その時は全くわからなかった。


いまは、さすがになるほどなと思う。

彼女とカラヤンはイコールである。

そうでないと意味がない。

高額なコンサートチケットこそボッタクリだから。


# by bachcantata | 2024-02-15 00:00 | 自己紹介・他

気にしたくも気にできない音を創る(つづき)

元日の大地震。

亡くなった方々のご冥福と共に、被災された方々の1日でも早い復興を祈念する。

東日本大震災に続いて、このたびも不幸にして、親族、友人が被災したので今後は頻繁に手伝いに向かう予定だが、全く不透明である。

ひとまず希望の親族(友人)に拙宅の空き部屋を提供することくらいしかできない不精者である。



(以下の文章は先月のブログ記事「気にしたくも気にできない音を創る」のつづき)


高額なオーディオ機械は環境に敏感反応するので、所有者がねらう明確なサウンド目標がないまま設置されてしまうと、なんでもかんでも音に変化が出てくるように機材、ケーブル、環境が完成する。それを振り回すのはオーディオショップとメーカーで、所有者は散財するだけでなく、永遠に自分の欲しい音にたどり着くことができず病んでしまうだろう。



どこを気にできるようにチューニングするのか。

電源まわり(電源ケーブルや電源タップなど)は常に音全体に影響がある。電源まわりをどのように変えても「違いが分からない」ようにオーディオシステムをチューニングすると、再現性の点で非常にレベルが下がる。ラジカセレベルやスマートスピーカーであっても電源環境で高音質化できるから、ピュアオーディオならばなおさらだ。


プリアンプとパワーアンプの間のRCAケーブルの質、長さ、これをどうするか。

どこまでを重要視して、どこからを気にしないようにするか。


例えば、極端な話、電源ケーブルをメートル十万円単位の高額品に変更する。その後、RCAケーブルを100均の赤白ヒョロヒョロのアナログ線にする。

すると決まって高額の電源ケーブルの音が暴れる。

バランスが完全崩れてしまうのだ。

そんな頓珍漢な事をする阿呆なんていないだろうが、意外と面白いから私はよく実践する。


「高額ケーブルが使い手を選ぶ」

ならば、

「100均ケーブルは使い方次第」と言えようか。


とにかく音が激変する、、、その「激変」が問題なのだ。

マッキントッシュの古いアンプは電源ケーブルがアンプ直出で変更が出来ない。これを魔改造して(私はやっていないが(笑))3Pインレットを付けて電源ケーブルを変えて使う御仁に出会った。


その魔改造後のマッキンプリの音を聴くと確かにSNが圧倒的に向上し、「全てにおいて音質の向上」を感じた。ただ「その全てが向上している音」は私の自室に最適であるとは感じない。

自室だと明らかにエネルギーが強すぎて音が暴れてしまうに違いない。くすんだお団子マッキン色のバランスが完全に崩れてしまい「上から下まで高解像度なお団子」が新たに耳障りになる。

オーディオの諸先輩方は電源ケーブルの価格を一桁、二桁上げつつ、同時に部屋の床や壁に手を付ける方が多いから、その逆に、あえて電源ケーブルの価格を一桁下げ、プリ=パワー間のアナログケーブルの質をうっすら上げつつも、部屋の壁だけに手を付けるくらいのバランスで攻めてみる。


こんな構築をひたすら続けていて、せっかく、実に微妙なバランスで作り上げていっているのに、雑誌評やネット評で、いとも簡単に、「イイね」のために

プリアンプだけ、

パワーアンプだけ、

ホイホイ変えちゃうと、精魂かけて作り上げつつあり「自分の好みなぼんやりサウンド」がご破産しちゃうんじゃないかなぁ。そんな感じ方がようやくできるようになったイキオクレオーディオ趣味人の私である。


# by bachcantata | 2024-01-25 20:02 | 自己紹介・他

気にしたくも気にできない音を創る

アキュフェーズのプリアンプに対する客観性は常に他社プリアンプと比較し続け、そこから自分の音の好みにどのように向き合うかを問い続けて、やっとこさ、わかりはじめた。


対象にふり回されている最中では振り回されていること自体気づけない。当然ながら他人から「それ、あんたには不相応すぎ」とどれだけ示唆されても、当人が実感するまでは永遠にふりまわされ続ける。ま、これはオーディオに限らず、万事に当てはまりそうだが。


客観性は自分の感覚の外側に立って、初めて実感できる。


B&W804d4の音が落ち着き始めてから半年以上経ち、長所と短所がより客観的に感じられるようになってきて、「この気に入らない音はどの要素が原因か」を見極める冷静さを随分と取り戻しつつある。やはり、機器を入れたばかりはもとより、半年、1年は無条件に逆上(のぼ)せているからまともな判断ができない。そればかりか、その機械の「目新しい音」に自分の音の基準が乗っ取られてしまって、今までひたむきに築き上げてきたマイチューニングを壊してしまいかねない。



オーディオ機器が振り回したのは、当然ユーザーの技量不足の結果のみで、決してメーカーが悪いわけではない。分不相応に高級すぎる機械を所有した私が、無知ゆえに無理し過ぎた挙げ句、振り回され、使いこなせず「アンプが悪いから自分の求める音が出ない」と決めつけて、不満山積で手放す事態が頻発していた。アンプが悪いとかメーカーが悪いとかそのような幼稚な考え方しかできないと問題点が有耶無耶になる。


ポイントはつまり「アンプが悪い」のではなく、「自分が求める音、聞きたい音」と「アンプ開発者の聞かせたい音が合っていない」だけである。


さらにもう一歩踏み込むと、「自分が求める音」を「アンプ開発者の音」に妥協して合わせられないだけである。


「趣味とは妥協の産物」であるのは自明だが、多くは「妥協は敗北」と勘違いしているようである。オーディオ趣味では、いや趣味とは妥協せずとことん自分の好悪を見極め、限りなく好みに作り上げることなのだが、同時に「どの要素を妥協しつつもセンスよく仕上げるか」が醍醐味だろう。たとえばオーディオ趣味なら、妥協をへらすと必ず「自作」になってゆき、根源的大問題の解決に行き着いて「マイ電柱」や「専用ルーム」は序の口、音のために住居の「引越し」、そして「オーディオ専用の家の建築」に発展してゆく。それが趣味であるし妥協を廃したロマンでもある。


ただ、妥協を廃してゆけばゆくほど、財だけでなく膨大な人生の時間を消費せざるを得ない。それは個人差があるにせよ、いずれ限界がやってくる。


そこにきて、アキュフェーズのオーディオ機器はフラグシップ機も含めて、まだまだハイエンドとは言えず、むしろ善意あふれるバーゲンプライスで「オーディオ入門のメーカー」とも言われるが、まさに的を得ている。そして精度の高さからアキュフェーズのオーディオ機器はセッティングや環境に敏感に反応するゆえに、趣味として味付けしやすい。特にセパレートアンプはその傾向が顕著でわずかなイタズラによって音全体が大きく変化する。


イタズラ=実験を繰り返して自分の好みに仕上げていく

自作のインシュレーターや倉庫にしまってあった古いオーディオボードなどを使ってごちゃごちゃやるのだが、つい気がつくと「木を見て森を見ず」状態に陥っている。


罠はいつもこれである

「今まで聞こえなかった音が聞こえるように変化した」

そう、これに尽きる。


まさに「木を見て森を見ず」状態の典型である。 なにか自分の好みとは違うな、、と感じていても

「今までとは比較にならないほど

たくさんの音が聞こえるようになったから良い音に違いない


と決めつけ「このやり方(この方向)で間違いない」とついつい断定しがちだ。

ダメだ!そうではない。


たくさん音が聞こえる、

高域が伸びる、

低域の解像度が高まる、

確かにいずれも高音質化には必要な要素なのだが、「それだけ」ではダメだ。


つまり、「高域が伸びたが、、、他はどうだろうか」が必要である。

ちょっといじると、すぐに中域が引っ込んだから、新鮮なドンシャリ化した結果「いかにも高音質化したような錯覚」になっている場合がほとんどである。


とても重要なこと。

オーディオをやっていて常に意識しておかないといけない要素。

「どこを気にして」「どこを気にしないか」

そして、

「どこを気にできるようにセッティングするか」

である。


オーディオ趣味はとかく「木を見て森を見ず」の状態に陥りがちである。気にできるポイントを絞って、

「ここは自分の求める音に直結するから気にする」と厳密なセッティングに抜かりなく

「そこは自分の求める音とは違うから気にしない」とめいいっぱい手をぬく、その「どこを気にできるようにセッティングするか」という要素を大切にオーディオ趣味を愉しむよう心がけている。



逆を言えば、自分が求めない音につながる要素をあえて気にできないようにセッティングすることが、ハイレゾ時代のオーディオ趣味で最重要ポイントではないだろうか。


# by bachcantata | 2023-12-30 00:00 | オーディオ

肝心の時間

ようやくQobuzサブスクリプションサービスが正式に日本で始まる。

RoonでQobuzを使っている経験からすると年払い15360円のスタジオプランがベストチョイスだろう。

ダウンロード割引付パッケージもあるようだが、買取りたい音楽データは日増しに減ってきている現状からして、少しでも節約したいからだ。


(2023-12-19追記)

どうやらQobuzの日本サービス開始が未定になったようだ。 まったくもってサブスクリプション後進国日本である。 まだまだ偽装アカウントのQobuzサブスク契約の利用を続ける必要がありそうだ。取得に苦労した甲斐があった。


肝心の時間_b0225847_12270663.png

肝心の時間_b0225847_12292771.png

肝心の時間_b0225847_12293690.png




閑話休題

「21世紀はクルマが空を飛んでいるだろう」

なんて想像していた頃が懐かしい。


ラジカセで音楽を聞いていた頃、五味や岡、その後に、瀬川、菅野各先生のシステムに憧れ、いつかボクもそんな高級システムで音楽をゆったり聴いている、そんな夕べを過ごしている、、なんて幾度も幾度も想像した。

当然、現在の自室のシステムは先の諸先生方には遥かに及ばないが、ま、入り口程度には立てたのかなとひとりよがり。


連日奔走して部屋に帰って寝る、、そんなルーティーンの中で、重厚長大な高額オーディオシステムにどのくらい向き合って音楽を聴いているのかと、ふと考えた。正直なところほとんど使っていない。にもかかわらず、音楽をかけている時間そのものはかつてないほど長くなった。スキマ時間にササっと手軽にしかも高音質で、さらに自分が聴きたい曲(17世紀の声楽や、18世紀のリュート曲、そして現代音楽等)を数秒で見つけて再生してあとはAI任せでほったらかし。ゆえに遊びのつもりで買ったB&W ZeppelinでQobuzのストリーミングを聞き流している時間が最も長いように感じる。


学生時代、時に過剰に想像し続けた「高級オーディオシステムと音楽のある生活」は、自分のレベルである程度手に入れたが、肝心の「音楽を聴く時間がない」という状態が続いている。


「本気の恋愛がしたくても、時間がない」

なんて一度は格好良く言ってみたいものだ。

良い音質で音楽を聴くことができる機械をひと通り揃えた時には、肝心の時間がないなんて全く皮肉な話である。カセットウォークマンで擦り切れるほどダビングテープを聴いていたあの頃は時間は山のようにあったのに。


我が家は代々、父系母系共にオトコたちは皆多趣味であるが、特に音楽鑑賞は代々続いている。オーディオ趣味のルーツは、知りうる限り、曾祖父から続いているらしいが、私が盤や機材を直接触れた範囲内だと祖父から始まり父へとつながり、そして現在に至っている。


高齢にもかかわらず、オーディオライフを送っていた、その父がつい先日突如意を決して辞めることにした。はやりの断捨離ではない。終活でもない。ただ「オーディオをやめる」という気持ちは理解できる。私でも「もう止めようかな」と幾度も思うのは機器からの無言の圧力を感じるからだ。


大半のケースでは、「高齢者のオーディオ卒業」はオーディオショップやリサイクルショップが乗り込んできてウハウハしつつ「ビンテージ機器一切」を二束三文で持ち帰るのだろう。

リサイクルショップ、買取業者には悪いが、その点、趣味の世襲が成功!?している拙宅では、あまたのオーディオ機材を代々引き続くのが普通になっているので、父の機械一切の「引き継ぎ」作業を始めた次第である、、、、なんていうと格好だけは良いが、ま、いわゆる「ゴミ整理」である。「死ぬ前の遺品整理」とも言えようか。


これは今でも使える、

あれはもう使えない、

その差の判断・認知が衰えてきて、とても時間がかかる。

現役時代にはパッパッと仕事をこなしていた父でも今やひとりで仕分けをまかせると私がするよりも3倍~10倍も時間がかかる。寿命の点で高齢者は時間がないようだが、隠居ゆえに実はたっぷり有り余るほどあるのだから、「使える、使えない」の判断を当人に任せても良いのだが、7、80年前の判断基準で捨てられるのは逆にもったいないものも多いのが事実。結局、私がすることになった。


「勝手に持っていくなよ」

「勝手にイジるなよ」

「お前が触ると壊すからな」

が長年の口癖であった父もあれからゆうに半世紀以上経過すると、立場が完全に逆転してしまい私に「まるなげ」である。


まさに「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」の典型的な例である。


同じ趣味を世襲することは、世間一般からすれば、羨ましいと言われる。確かにあまり多いケースではないだろう。明かせば、私の定番「逆もどり」「逆もどり」という連呼は世襲オーディオマニアの考え方であることは疑いない。


まるなげ、それは遺品整理業者であれば、機械的な作業をして完了する清掃であるが、親族となると、しかも「価値がわかる」親族が行う整理作業は、単純な機械的作業というわけにはいかない。「整理」というよりむしろ「発掘」といえる作業が始まったわけである。


倉庫はもとより、父の部屋、祖父の部屋(亡くなって何十年経ってもそのまま、毎日掃除している)に置かれた膨大な機械類、アナログレコード、カセット・オープンリールテープ、CD、予想以上の量に驚いたDATテープ等々、それらを眺めると、ふと


使い込む

使い切る


つまり何を基準にして

「使い切っているか」

を判断するのかを考えはじめた。


いま思えば、アキュフェーズのプリアンプC3850の高性能に振り回され続けたこの7年。

まったく使い切るどころの話ではない。なさけないことである。それも最新機種C3900が発売されて2年経った今頃になりようやく自分の音を作り上げるために自室のC3850が中心的な役を演じ始めたのだ。ジコマンという氷塊がゆっくり溶け始めた。


「高級とはそれを受け止める(あつかえる)技量が伴わないと本領発揮できない」なんて重々承知しているつもりだったが、下手の横好きというべきか、ま、たんなる阿呆なのだろう。「こんな高級品を買って自由に使えるオレって凄い」というナルシスト的な自己満足に過ぎない。C3850をうっかり手放す前にそれに気付けたことは僥倖だった。


# by bachcantata | 2023-11-25 12:31 | 自己紹介・他

Mcintosh XRT後は、ソナスファベール・アマティとガルネリを使い分けてイタリアの風を嗜む。デジタルデトックス、軽薄短小にこだわる逆戻りレコード演奏家


by bachcantata